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   江戸時代、元禄14年(1701年)衝撃的な事件が発生した。
その事件の発生要因は非常に謎めいた所が多かった。
また、事件の裁判結果は何か釈然としなかったが、
誰もがこれで事件は解決したと思い込んでいた。

  しかし、この事件は終わっていなかった。
「判決はおかしい!」「裁判は終わっていない!」と
事件の当事者は立ち上がり、新たな事件を発生させた。
裁判結果が何か釈然としないと思っていた庶民は歓喜した。
  が、この結末も釈然とせず溜息で終わる。
この事件が所謂「元禄忠臣蔵」である。

  この歴史の舞台は現在どんな顔を見せてくれるのでしょうか?
何か新しい顔を期待しながら歴史発見の散歩に出かける。




「歴史発見の散歩」の前に予備知識を!!


  ● 徳川5代将軍「綱吉」(1646年〜1709年)


  徳川3代将軍「家光」の四男として生れる。 綱吉の生母は桂晶院。
幼少の頃から身体は弱く小柄、困った家光は学問第一に養成させる。
上州館林藩25万石の綱吉は、1680年、病気で死が近かった4代将軍
「家継」の養子となり、家継病没後将軍職を引継ぐ。
将軍となった綱吉は、大老や老中等の幕閣に政務を任せる事を嫌い、
館林時代の家臣を取りたて次々と昇格させ、意欲的に政治に取り込む。
特に民政に力を注ぎ、公共投資?により建設ラッシュを行い、
経済の発展を高めた。この経済の発展は華やかな元禄文化を生み出している。
しかし、バブル経済の発展は急速に貨幣経済が進んだため小判が不足し、
元禄小判は改悪となる。
一方、特異な性格の綱吉は、気に入った人は徹底的に重要視するが、
気に入らない人は冷淡な仕打ちをする。
天下の悪法「生類憐れみの令」は、気に入った人の助言から発し、
24年間民を苦しめる。 が、浅野家家臣の仇討ち事件では、苦悩の末
最良の決断を下す。




  ● 柳沢吉保 (1658年〜1714年)


  柳沢吉保は徳川綱吉と一回り下の戌年生れ。
上州館林藩の小姓番頭時代(530石)から学問に強く、
綱吉に気に入られる。忠誠心と使命感に強い一方、
出世欲にも執着し、綱吉をもだましながら江戸城納戸役、
川越領主7万2千石、時の執政老中首座まで 出世する。
元禄小判の改悪は、石高が低いが出費が多い
高家に目を付け、 吉良上野介に片棒を担がせる。




  ● 吉良上野介 (1641年〜1702年)


  吉良上野介は将軍が行う儀式の式典を担当した高家と言われる
官吏である。高家は正月など大名が将軍に謁見する際の儀式や
勅使参向の際等に朝廷への儀礼や交渉を司りながら、
大名の儀式作法等の指導も担当している。
吉良上野介は三河吉良(現在の愛知県幡豆群吉良町)
の領主で、先祖は足利氏、茶道等の文化人でありながら
民政に長けており、領民からは名君として慕われていた。
一方、高家指南役筆頭まで出世した吉良上野介は、自領地の
塩田で取れる塩が高く売れず、領民負担の軽減?等から
大名・役人からの付け届けを請求するようになったと言われている。




  ● 浅野内匠頭 (1667年〜1701年)


9歳の時、父・長友が亡くなったため、赤穂藩5万石を引継ぐ。
儒教・兵学を学び、文武両道に励み、「武士は清廉潔白で
なければならぬ」が 彼の生き方である。
  17歳の時、勅使参向の饗応役を無事に務めるが、
二度目の饗応役時、事件を起してしまう。